(2026.4.19)

文京区にある関口芭蕉庵という所に行ってきました。かの有名な俳人、松尾芭蕉が「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句を詠んだ場所とされています。
※現在のものは戦後に復元された建物です。

※アクセスは電車だと都電荒川線の早稲田駅が近かったです。

1677年から3年間程度芭蕉が暮らした場所で、現在の建物は戦後に修復されたものではありますが、ここで「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句が生まれたのです。現地には句の石碑がありました。

写真の様に、都内とは思えないとてものどかな場所で、静かで心休まります。史跡散策としても気軽な散歩としてもおすすめ出来る良い場所です。

ところで、問題はタイトルにもしましたが「古池や~」の句の英訳です。まずはこの句の英訳を2つ、以下に例示致します。

(1)
The ancient pond
A frog leaps in
The sound of the water.
(ドナルド・キーン訳)

(2)
Old pond – frogs jumped in – sound of water.
(ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)訳)

注目したい事として、カエル(frog)が(1)では単数形ですが、(2)では複数形になっています。普通に考えればこの句の解釈は、「一匹のカエル」が池に飛び込んだ音がそれまでの静寂を破ったという、静と動のコントラストを風流な景色のイメージと共に想起させるものではないかと思います。にも関わらず、日本文化に精通したラフカディオ・ハーンが上記(2)の様にカエルを複数形にしたのはなぜなのかという疑問が浮かびます。
言語学者の池上嘉彦氏によれば、英語の複数形が包含するニュアンスとして、一定の時間間隔でぽつぽつと起こる一連の出来事も、複数形にする事で表現される様です。つまり、「古池や~」の句において芭蕉がその場所に一定の時間佇んで、その池に時々カエルが飛び込んでいたとすれば、カエルが複数形になるのです。この出来事を一瞬の出来事として詠んだのか、ある程度の時間の流れを感じながら詠んだのかで、frogなのかfrogsなのかの解釈が別れるのです。

ラフカディオ・ハーン訳を最初に見た時は強烈な違和感を感じましたが、上述の様な英語の複数形の性質を知ると、カエルが複数形になる解釈も理解できます。ここに日本語と英語の言語としての性質の違いが如実に表れており、面白くもあり難しい所です。
日本語では、対象が単数か複数であるかに英語ほど厳密ではないです。例えば、動物園に行って5頭のゴリラを見ても、「ゴリラ達だ」とは言いません。対して英語では明確に”Gorillas”と、複数形のsを付けるでしょう。こうした言語の性質の違いから、「古池や~」の原文と翻訳に齟齬が生まれるのです。日本語では蛙が複数匹だったとしてもわざわざ複数形にしないので、「古池や~」の句における解釈は読み手に委ねられ「空白の美学」みたいなものが生み出されていると感じます。つまり、カエルが一匹なのか複数なのか、一瞬の出来事なのか一定の間隔の時間の中での出来事なのか、それらのニュアンスも含めた諸々が読み手にゆだねられ、簡素な表現で全てを言わない潔さを感じさせます。この様な美意識は日本庭園や和室等、日本の他のジャンルにも通ずるものがあると感じます。

「古池や~」の句の英訳におけるカエルが単数形か複数形か、という議論を考察しましたが、もしかすると当の松尾芭蕉本人は、両方の意味を含ませて詠んだのかも知れません。もしそうだったとすると、英訳におけるカエルはfrogにしてもfrogsにしてもどちらも半分正解半分不正解になってしまいます。異なる言語同士の対訳が、それぞれの言語の性質の違いによってきれいに1対1にならないのは、面白くもあり、難しくもあり言語の奥深さを感じ、非常に興味深いです。

おわり

「古池や 蛙飛び込む 水の音」の英語訳に関する言語学における本格的な論考が読める書籍は以下2冊です。いずれも池上嘉彦著。

<書籍情報>
(1)「英語の感覚・日本語の感覚  <ことばの意味>のしくみ 」(池上嘉彦著 2006)

英語の感覚・日本語の感覚 <ことばの意味>のしくみ|池上嘉彦(著)
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題名 英語の感覚・日本語の感覚
<ことばの意味>のしくみ
著者 池上 嘉彦 (著)
ジャンル 言語学、比較言語学
出版社 NHK出版
(NHKブックス No.1066)
出版年 2006年8月30日
ページ数 256

(2)「日本語と日本語論」(池上嘉彦著  2007)

日本語と日本語論 (ちくま学芸文庫 イ 11-2)|池上 嘉彦 (著)
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題名 日本語と日本語論
著者 池上 嘉彦 (著)
ジャンル 言語学、比較言語学
出版社 ちくま学芸文庫
(ちくま学芸文庫 イ 11-2)
出版年 2007年09月10日
ページ数 375